075 僕は何処。



 嘘だ。


「雲雀」
 と呼ぶとなんだか違和感がして、いつものように呼ぶことにした。
「恭弥」
「何」
 現金なことに、今自分の腕の中に居るひとは、名前を呼ばれたときにだけ反応を返す。
「きょーや」
 その現金さに甘えて、抱きしめる力を強くした。
「だから、何。痛いんだけど」
「ごめん」
 口で謝っても、離さない。自分の肩口に恭弥の頭を押しつけて、自分の顔を決して見ら
れないように。情けなく引き結んだ口元を、今にも感情を溢れさせてしまいそうな目を、
見られないために。声は震えるかも知れない。抱きしめる腕も震えるかも知れない。けれ
ど顔は、顔だけは、君には見られたくなかった。
 恭弥を抱きしめると、どうしようもない感情が自分の中に渦巻くのを感じる。恋とか愛
とか自分が想像していたそんなありきたりなものじゃなく、今まで自分が殺してきたネガ
ティブがどっと押し寄せてくるのだ。そのまま耐えられないような気持ちになって、情け
なくも縋るように恭弥を強く抱きしめる。そのたび、また感情が自分を襲う。堪えきれな
い。
 恭弥はいつも、俺の鍵だよな。呟くと、聞きつけたのか「何それ」とかなり不機嫌そう
な声が返ってくる。
「ごめん」
 ごめん、恭弥。
「もうちょっと、だけ。このままが良い」
 抱きしめる腕に力を込める。腕の震えは自分でも気づけるほどになっていた。嗚咽も殺
せなくなっていた。殺したくも無いほどに何かが自分を追い詰める。恭弥を抱きしめる大
切さだけは守っていたかったのに、情けなくも腕からいつの間にか力は抜けていった。ず
る、と恭弥の肩から、背中から、俺の手が落ちる。金色の頭を恭弥の頭に預けた。
「重い」
「ごめん」
 即座に切り返す。むしろ、切り返そうとしたのではなくて、いつか口から溢れるだろう
と思っていた心がタイミングよく現れただけだ。
 本当にそれは恭弥のためだったのか。もうそれも掴めない、けれど。
 今はただ、自分を突き放すでもなく優しく立っている恭弥が好きだった。
 恭弥を抱きしめながらも、他人のことを考えている俺に、恭弥は優しい。

(本当に大切な奴だったんだ。でも、ごめんな。俺が不甲斐ないばっかりに、お前は、嫌
な死に方をしたよ。別に死ななくても、よかったはずなのにな。お前は、俺に、生きろと
言ったけど、でも俺は、お前にも生きてて欲しかった。また、みんなで遊びに行こうって、
言ったのに。な。俺が不甲斐ないだけだったのかな。分からない。分からないけど)

 いつもそれは、鋭利なガラスよりも静かに俺の胸に突き刺さる。
 俺の家族が一人、死んだ。




*****




 珍しいことではなかった。彼がとても優しいことは、知っていた。
 マフィアのボスがそんなもので良いのか、と言いたくもなるが、彼の優しさはボスだか
ら存在するわけではなかった。そんな陳腐な優しさなら、自分も彼に近づきはしなかった。
 彼の優しさがマフィアのボスとしてあだになるのかどうかは、自分には判断できない。
しかしその優しさが時に彼を躓かせるだろうと言うのは、想像できた。
 昨日、いつものように「ちょっと他のファミリーに殴り込みしてくる」と嗤っていった。
 「ふぅん」と興味なさそうに返したけれど。
 今日、帰ってきて扉を開けたあなたを見て、何も言わずに扉を閉め、鍵をかけた。その
音を待っていたかのように、ディーノは正面から自分を抱きしめた。
 どうして笑わない。
 あの輝かしいとは決して言えないけれど、気の抜けた笑顔は、嫌いではなかった。
 白い象牙を磨き上げたような端正な貌は、歪むこともなくただ自分自身の指先を見つめ
ていた。
 一瞬目の端で捉えた。彼の爪は割れていた。
 血が滲んでいて、そんな制服が汚れるのも許容して素直に抱きしめられている自分は、
一体何を考えているんだろう。自分で自分が分からなくなるが、彼の行動の方が意味不明
だから、良いだろう。いつものことだけれど。
 彼の襟元の匂いを感じる。目を細める。いつもには無い硝煙と、血の臭いがした。
 彼の背中に手を回すことは、無駄なことだと思った。自分に優しさを求めるのは、お門
違いだ。
「雲雀」
 違う。
 僕の名前はそうじゃない。
「恭弥」
「何」
 少しだけ彼が笑う気配がした。それと共に彼の負が強くなる。
「きょーや」
「だから、何。痛いんだけど」
「ごめん」
 更に強く抱きしめられる。全く人の話を聞いていない。
 それも悪くないか、なんて思えた。彼が何かを呟いたのが聞こえて、「何それ」と顔を
しかめる。
「ごめん。もうちょっと、だけ。このままが良い」
 ――いつものことじゃない。
 心の中だけでぼやくように返す。
 だんだん自分を抱きしめる力が緩くなっていくのには、気づいていた。ただしそれすら
も甘受していた。
 自分の視界に金色が映り込む。
「重い」
「ごめん」
 タイミングに違和感を感じ、これは自分に言っているのでは無いのだと直感する。目を
閉じて、彼を見ないように。彼を感じ取らないように。
 彼は優しすぎるのだ。爪が割れ血が滲むほど強く鞭を握りしめてでも、誰かを救おうと
していた。
 ナイフより純粋で、ガラスより鋭いほどに強い思いで。

 彼の家族が一人死んだ。







2007/05/06 何が楽しくて雲雀の日の翌日にこんなものを書いているのだろうか。
      でもネガティブディーノは楽しいものがあります。そろそろお題に従えよな
     あ。